ロードバイク メーカー図鑑A - ロードバイクの選び方が初心者だった俺・・・今は??

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ロードバイク メーカー図鑑A

本日のロードバイクメーカー
CERVELO(サーベロ)
COLNAGO(コルナゴ)
DE ROSA(デローザ)
EDDY MERCKX(エディ・メルクス)
GIANT(ジャイアント)

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 CERVELO(サーベロ)
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サーベロ(Cervélo Cycles )はカナダトロントに本拠を置くロードバイク・トライアスロン用フレームメーカー。1995年にフィル・ホワイトとジェラード・ヴルメンにより設立され、現在もこの二人が会社を経営している。

サーベロ製のフレームはトライアスロン界で人気だったが、2002年から2008年にかけては、デンマークのプロロードチームであるCSCに採用されていた。

2009年からはサーベロ社が独自のコンチネンタルプロチームであるサーベロ・テストチームを設立し、カルロス・サストレやトル・フースホフトなどの著名選手と契約した。

サーベロの炭素繊維製フレームは、流体力学に基づいて設計され、「S」および「P」シリーズにおける翼断面を採用したフレームを特徴とする。 またサンディエゴのAir and Space Technology Centerでは、風洞実験も行っている。

現在は空力重視の「S」と快適さ重視の「RS」、TT用の「P」の三種類が存在するが、代理店のサイトでは「全てがフラッグシップ」を謳っており、トル・フースホフトは「RS」を好んで使用しているという[1]。





COLNAGO(コルナゴ)
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コルナゴ(Colnago )は、イタリアに本社を置く自転車メーカー。

創業者はエルネスト・コルナゴ。

これまでに140以上のチーム、2500人を超えるプロ選手により7000以上の勝利を挙げ、自転車競技の歴史の一部となるまで発展を遂げてきた。スポーツ用自転車メーカー、ロードバイク用フレームビルダーとしては名実ともに世界一と賞賛される。

1932年2月9日 - エルネスト・コルナゴがイタリア、ロンバルディア州ブリアンツァ地方のカンビアーゴで農家の長男として誕生。
1944年 - カンビアーゴの工場で働き始め、初めての溶接を経験。
1945年 11月25日 - ミラノの工房グロリアで奉公を開始。
1946年 - 選手としてレース活動を開始。
1947年 - ロードレース初勝利、以後コッパ・カルディローラを含め13勝。
1952年 - カンビアーゴの小部屋を借り、そこで自転車の製造・修理の下請け業を開始。
1954年 - 独立して正式に自身の店を持つ。これが「コルナゴ」の始まりである。
1957年 - フォークの低温溶接法を発案。
1970年 - 現在でもシンボルとして存在するクローバーのマークを使用。
1972年 - エディ・メルクスがコルナゴで49.432kmのアワーレコードを樹立。
1975年 - メキシコアワーレコードで使用されたリブ入りフレームを発案。
1978年 - コルナゴ一家がローマ法王に拝謁。ロードレーサー献上。
1980年代 - カーボンを素材とした空力形状のTTモデルを多数試作。
1983年 - 冷間引き抜き工法や星形形状のリブ入りパイプを取り入れたクロモリ・フレーム、「マスター」を開発。
1986年 - F1技術で世界を先駆するフェラーリとのコラボレーションを開始。
1987年 - プレチーザ・ストレートフォークが誕生。
1989年 - フェラーリのエンジニアリングとのコラボレーションによる、カーボンモノコックフレーム「C35」(コルナゴ35周年記念モデル)が誕生。
1991年 - 双胴パイプの「カルビトゥーボ」を発表。
1992年 - カルビトゥーボをスペイン国王に献上。
1993年 - カルビトゥーボのシルエットをベースにしたチタニウムフレーム「ビチタン」を発表。
1994年 - トニー・ロミンガーがコルナゴで55.291kmのアワーレコードを樹立。
1994年 - コルナゴ40周年記念モデルとなるカーボンフレーム「C40」を発表。
2000年 - フェラーリとのコラボレーションによる集大成、限定版カーボンロードレーサー「CF-1」を発表。

2002年 COLNAGO for Ferrari - CF-3
F1フェラーリチームの顔をイラストペイントした限定車。
2003年 ANNIVERSARY
創業50周年を記念した限定車
2006年 ForEver
コルナゴ夫妻の結婚50周年(日本で言う金婚式)を記念した限定車。世界限定50台、そのうち20台は日本で発売。
2008年 COLNAGO for Ferrari 60th Anniversary - Lightweight wheel version
フェラーリ創立60周年を記念して世界限定60台で発売。
2008年 Extreme-Power Scuderia
アレッサンドロ・ペタッキらによって勝利を量産した「Extreme-Power」に、世界最高峰「Lightweight」社フルカーボンホイールを装備。世界限定20台。
2009年 COLNAGO for Ferrari - CF7
Carbon wheel versionが世界限定99台、Aluminum wheel versionが世界限定199台で発売。
2010年 Master 55th Anniversary
コルナゴ社創業55周年を記念して制作。世界限定99台、そのうち25台は日本で税込1260000円にて発売予定。
など



 DE ROSA(デローザ)
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ウーゴ・デ・ローザ・エ・フィーリSrl (Ugo De Rosa & Figli Srl)は、イタリアの自転車メーカー。通称、デローザ。

12歳の時から自転車のフレーム作りに携わってきたウーゴ・デローザが1953年、18歳の時に独立して自らの名前を冠した自転車メーカーを興した。それが現在のデローザの始まりである。生涯現役というウーゴ・デローザだが、今のデローザは実質的には息子であるクリスティアーノ・デローザが経営を行っている。

ウーゴ・デローザを知るオールド・ファンにはレーシーなイメージが強いメーカーであるが、ハート・マークが入ったロゴがかわいらしいことから近年では女性にも人気がある自転車メーカーである。

現役時代のエディ・メルクスはコルナゴと深い関係にあったが途中から仲違いし、デローザとの結びつきを深めるにいたった。その為自らの名を冠したブランドを立ち上げる際にデローザからアドバイスを受け、深い影響を受けている。



EDDY MERCKX(エディ・メルクス)
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エディ・メルクス(Eddy Merckx)とは、

ベルギー出身の自転車プロロードレースの選手(1945年6月17日 - )。
上記の人物の名前に由来する高級スポーツ自転車のブランド名。
本項ではその両方について説明する。

ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアをそれぞれ5回ずつ、ブエルタ・ア・エスパーニャを1回制覇しており、ツール・ド・フランス通算ステージ34勝、単年ステージ8勝、マイヨ・ジョーヌ着用日数96日はいずれもツール・ド・フランスにおける最高記録である。

また世界選手権でも3回(アマチュア時代も含めれば4回)優勝。さらにミラノ〜サンレモを7回、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュを5回制するなどクラシックでも数多くの記録を残し、1シーズン54勝というシーズン最多勝記録も保持している(ちなみにシーズン50勝以上を3回達成している)ほか、パトリック・セルキュとタッグを組んでトラック競技でも勝利を重ね、16年間の競技生活で通算525勝(うちプロ時代に425勝)をあげた。

ツール・ド・フランスとジロ・デ・イタリアの両方を制する「ダブルツール」を1970年、72年、74年の3回達成。74年はさらに世界選手権も制して「トリプルクラウン」を史上初めて達成した選手でもある。

全盛期だったモルテニ所属時代には、その攻撃的な走り、出場する全てのレースで勝利を目指した貪欲さから、他の選手たちに「人食い(The Cannibal)」の異名で恐れられた(但し、本人曰く、他の選手からこの名で呼ばれたことはないとのこと。インタビューより)。

その数々の偉業により、ロードレース・ファンからはファウスト・コッピと並んで「カンピオニッシモ」(伊:Campionissimo―チャンピオンの中のチャンピオン)と呼ばれている。

1961年に16歳で競技を始めたが、1964年には19歳の若さで東京オリンピックのベルギー代表のロード選手に選ばれ来日。さらにアマチュア世界選手権を制するなど、すでに大器の片鱗を見せ始めていた。

1965年にプロに転向。翌1966年にいきなりミラノ〜サンレモで優勝して衝撃のデビューを飾ったものの、この年は、大きな勝利はこの1つにとどまった。しかし1967年はミラノ〜サンレモの連覇を皮切りにヘント〜ウェヴェルヘムやフレッシュ・ワロンヌなどのビッグレースで優勝。ジロ・デ・イタリアではステージ2勝を挙げ、世界選手権も制し、一気にトップレーサーとなる。

1968年にはパリ〜ルーベを制覇したほか、ジロ・デ・イタリアで初めての総合優勝を遂げ、1969年はパリ〜ニースの総合優勝を皮切りにクラシックレースも次々制覇。その勢いのままツール・ド・フランスでもステージ6勝を含む総合優勝を達成。

そして1970年にはジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスの両方を制して「ダブルツール」を達成。最強の座を確たるものにした。

1971年もツール・ド・フランスの連覇を始め、ミラノ〜サンレモ、フレッシュ・ワロンヌ、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュ、ジロ・ディ・ロンバルディアと数々のクラシックで優勝。さらには世界選手権で2度目の優勝を達成した。

1972年には自身二度目の「ダブルツール」達成。さらにメキシコでアワーレコードに挑戦。49.43195kmの新記録を叩きだし、世間からは「これを塗り替えることは永遠に不可能」とまで言われた。

さらに1973年はジロ・デ・イタリアとブエルタ・ア・エスパーニャで優勝したほかパリ〜ルーベで3回目、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュで4回目の優勝を飾るなどクラシックでも大活躍した。

1974年には前人未到となる三度目の「ダブルツール」を達成。ツール・ド・フランスでは史上最多となるステージ8勝という圧倒的な成績を残した。さらにこの年は世界選手権も制して史上初の「トリプルクラウン」を達成。栄光の絶頂を極めた年となった。

そして1975年も春のクラシックシーズンを絶好調で終えるが、ツール・ド・フランスでは、ベルナール・テブネの前に苦杯を喫し、2位に終わる。しかし、これはメルクスの力が衰えたからではなく、第14ステージの山頂ゴール手前でメルクスを嫌う観客にボディブローを叩きこまれたのが原因であり、これによって次のステージから急激に体調を崩したうえ、落車して顎を骨折。ものを咀嚼できない状態になった。そのため体調はさらに悪化し血を吐くまでになり、誰もがリタイアすると思ったが最後まで走りぬき、しかも優勝をあきらめずに何度もアタックをかけ、周りを驚かせた。

しかし、その無茶がたたって、以後は急速に走りに精彩を欠くようになり、1976年に7回目のミラノ〜サンレモ制覇を達成したのを最後に大きなレースでの勝利からは見放されてしまう。結局1978年に引退。

引退後はウーゴ・デローザに指導を受け、ブリュッセル郊外でバイクフレームの制作工場を興した(詳細は後述)。

そのほか現在ベルギーの自転車関係の団体の委員を歴任。1996年にはベルギーの国威高揚に貢献したということでベルギー王室からも男爵の爵位を贈られている。2010年現在はベルギーオリンピック委員会の委員を務めるほか、ツアー・オブ・カタール及びツアー・オブ・オマーンの運営にも関与している[1]。

勝利に対する執着はすさまじく、時には愛娘と遊んでいるときの競争でさえ勝ちを譲らないこともあった。また、レースでは、よくスタート直前までリアスプロケット部分を隠していた(歯数が多ければ登りで勝負、少なければ平地で逃げを狙うかスプリントに絞っているなど、どんな作戦を立てているかをある程度推察されてしまうため)。
かつてツール・ド・フランスでは全ステージ優勝を狙って走っていたと発言したことがある。実際、1968年の ジロ・デ・イタリアと1969年のツール・ド・フランスでは総合優勝に加えて山岳賞とポイント賞まで独占するという空前絶後(現在でも唯一無二)の結果を残しているほか、1970-72年のツール・ド・フランス、1973年のジロ・デ・イタリア、ブエルタ・ア・エスパーニャでも複数の賞を獲得しており、奪える勝利は全て奪う姿勢を貫いていた。
他人どころか自分に対しても容赦がなく、1970年のモン・ヴァントゥへの頂上ゴールでは、ゴール後に酸素ボンベを必要とするほどのペースで走り、ステージ優勝こそしたもののダメージは大きく、危うくリタイアしかけた。
1975年のツール・ド・フランスでの無茶が彼の選手生命を縮めたことは間違いなく、本人も「あれをしなければもう少し走れただろう」とその旨を認める発言をしている。また、1968年のツール・ド・フランスについても出場していたら優勝できただろうと語っており、もし妨害などがなければ1968-1975年にわたって8連覇(あるいはそれ以上)を達成していた可能性も十分にあった。
選手のドーピングに関しては厳しい非難をしているが、ランス・アームストロングが薬物使用を疑われたときには、真っ先に擁護した(しかしデビュー当時のランスはメルクスのことを知らず、所属していたモトローラチームが使用していたフレームの「Eddy Merckx」のロゴを見て、「エディ・マークス(メルクスの英語読み)って誰?」と発言し周囲を驚かせたことがある)。
1969年のジロ・デ・イタリア第15ステージを勝利しながらも、同レース終了後のドーピング検査で陽性が発覚したため、マリア・ローザ着用のまま、レースから除外された[2]。
選手時代からタバコを吸っており、アワーレコード挑戦後にも一服つけていた。引退後も変わらず、サポートカーや審判車に乗りながらタバコを吸っている光景が時折、映し出されていた。
息子のアクセル・メルクスも父と同様プロのロードレーサーとなった。もっぱらアシストとしての仕事が多かったため成績は父に遠く及ばないが、2000年のベルギー選手権優勝、2004年アテネオリンピック銅メダル(オリンピックのメダルは父が獲得することができなかった数少ない勲章である。もっとも自転車競技がオリンピックでプロに開放されたのは1996年のアトランタオリンピックからであり、父は東京オリンピック以外は出場権がなかった。)、などの成績を残し、2007年のツール・ド・フランス完走を最後に引退した。

現役時代は機材に異常なこだわりを見せる選手として有名であり、レースの前日であろうとフレームの改良を指示して、当日朝一番で届けさせることもしょっちゅうだった。デビュー当初はチームで使用しているフレームが気に入らず、自費で別メーカーのフレームを購入し、チームカラーにペイントして使用していたこともある。
ポジション調整にもこだわりを見せており、スタート直前まで微調整をしていることは日常茶飯事で、レース中に逃げを決めている時にも関わらず、一度自転車を降りてチームメカニシャンを呼びサドル高を調整させたという伝説まで残している(この様子は市販のDVDで確認出来る)。こうしたこだわりは彼自身の性格もあるが、1970年にトラックレースの最中、クラッシュに巻き込まれて背中と腰を痛めてしまい、以後その痛みに悩まされ続けたためでもある(この時は頭部も強打して一時意識不明になっていた)。
軽量化にも熱心で、現在に至るロードバイクの軽量化はメルクスから始まったといえる。ギアやハンドルなどのパーツに穴をあけて肉抜き加工を施すことも多く、72年のアワーレコード挑戦時には5.75kgという極限まで軽量化を実現したチタンパーツを使用したスペシャルバイクを使用した(当時のロードバイクの平均重量は10kg前後)。このバイクはベルギーのブリュッセルの地下鉄にある、彼の名を冠した「エディ・メルクス駅」のホームに展示されている。
このように自転車に対しては革新的な姿勢を見せたメルクスだが、着るサイクルウェアについては保守的で、ウール素材のレーサージャージを愛用し続けた。ファンから「メルクスと言えばウール」とまで評されたのは有名である。
メルクスがアワーレコード(49.431km)を記録した時、これを破れる選手はいないと言われていた。その後ファニーバイクを用いたアワーレコードの記録更新が相次いだが、2000年の国際自転車競技連合(UCI)の規則改正により、アワーレコードには「通常のロードレース用自転車を用いること」が義務付けられたため、それらの記録は全て無効とされている。それを踏まえた上での2010年現在のアワーレコードは49.700kmであるが、メルクスの記録との差はわずかであり(メルクスより0.3kmしか速くなっていない)、通常のロードレース用自転車において機材の進歩が著しいことを考えれば、メルクスの残した記録がいかに圧倒的だったかが分かる。

66-67年 プジョー-BP
68-70年 ファエマ(68-69年Faema、70年Faemino-Faema)
71-76年 モルテニ
77年 フィアット
78年 C&A
※78年引退

ツール・ド・フランス 通算34勝
ジロ・デ・イタリア 通算24勝
ブエルタ・ア・エスパーニャ 通算6勝



 GIANT(ジャイアント)
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ジャイアント・マニュファクチャリングは、1972年に台湾で設立された自転車製造メーカー。

本社は台中県大甲鎮。主要な生産物は中・低価格帯のマウンテンバイク、クロスバイク、ロードレーサーで、その他にもレース用自転車や折り畳み自転車など様々な自転車を開発・生産・販売している。また松下電器、フォード、ルノーと共同で電動アシスト自転車の開発にも携わった。

1980年に台湾第一位の自転車メーカーとなって以降、1986年にはヨーロッパ、1987年にはアメリカに進出。1989年から日本法人も構える。生産された自転車のほとんどは国外輸出向けで、他社のODM、OEM生産も積極的に携わっている。

手頃な価格帯の製品に強みを持つ同社であるが、Tig溶接のアルミフレームやカーボンフレームの製造に関しては世界屈指の技術力をもつ。高度に機械化された生産ラインは同社の最大の特徴で、低価格高品質な製品の製造を可能にしている。スローピングフレームと呼ばれる極端にトップチューブの傾いたフレーム設計は同社が開発した技術で、これは世界的に普及し、他社からも多くのスローピングフレームが発売されている。

また、コンポーネントメーカーのSRAMや、ブレーキのテクトロ、ホイールのフォーミュラなどといった台湾の自転車部品メーカーとの繋がりも深く、より一層のコストダウンを可能にしている。

現在では高い技術力を生かしてプロのロードレースにも積極的に進出している。スペインのプロ自転車チームであるオンセに対するフレーム供給を皮切りに、ドイツのプロ自転車チームT-モバイルにフレームを供給。現在はオランダのプロ自転車チームラボバンクにフレームを供給している。また、ODM・OEM生産ではコルナゴなどヨーロッパ名門ブランドの比較的低価格な製品の生産も行なっている。





 ※転載 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 ※写真は各ロードバイクメーカーサイトの写真転載





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2010-08-26 | Comment(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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